ラノベ表紙のいざこざについて
お久しぶりです。最近、将来が不安になり過ぎて手が震えたり、吐き気催したり、集中力を切らしたりしてた赤ベーコンです。(マジで。)
全然眠れないまま朝6時を迎えたので、ブログを書きます。(これは別に不安とかと関係ない)
正直、この話題全く興味なかったんですが、何か書けって言われたので書きます。(何だそのやる気の無さは。)
これか。事の発端になったやつ。正直、こんなのゴキブリのように湧いて出てくるんだから、一々反応しないでスルーすればいいものを...
しかし、相変わらず性表現の自由戦士の方とツイッターフェニストおば様の熾烈なツイバトルが繰り広げられてる訳ですな。
まあ、一時期は僕も熱心に表現の自由がどうのこうのとか呟いてたんですけど、毎度のことやん。こういうの。もう、飽きました。飽きベーコン。
でも、僕なりに色々思うこともなくはないので、それを綴っていこうかなと思います。
(やる気を出せ。)
表現の自由は価値観。
まず、表現の自由という概念について整理しましょう。何か物申すって訳じゃない。どっかのプロレスラーYoutuberじゃない。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
ってやつですよね。思い浮かべるの。
だから一見すると、漠然と「法的な問題」なのかなあって思いがちなんですけど、今回の件は憲法21条で保障される表現の自由の話じゃないんですよね。
何故かって言われれば、憲法の人権分野は原則的には国家対人の関係について定めてるからなんですよね。
今回の件は、書店はこういう性的(なのかなあ?)な表現をゾーニング(未成年者などが見れないように仕切りとかをする)すべきかって話なので、全然国家とかっていう話じゃないじゃないですか。(勿論、私人間効力論とかあるわけなんですけど、この件ではあんまり問題にはならんでしょ。)
千葉市の表紙を隠す袋の提供も微妙なんですよね、確かに地方公共団体という権力が関係してるんですけど、あれはコンビニにお願いしてやってるので、コンビニの任意なんですよ。
まあ、だから、Twitterオタク界隈を賑わす「表現の自由」という表現(わかりにくい)の99%が「表現の自由は尊いよ。」っていう価値観のことを示してるわけです。
表現の自由戦士は絶対的真理の如く説くけど、あくまで尊重すべきって価値観が憲法に現れてるだけなんですよ。
だから、表現の自由って絶対的真理とそれに立ち向かうフェミおばさんって構図に見えるけど、ただの価値観の殴り合いなんです。
うだうだとした感想
まあ、確かに自由戦士の「そんな個人の感情で表現の自由が制限されてたまるか!」っていうのは分かるんですけど、女性がこういうの見みると「気持ち悪い」って思いそうなのも分からなくもないけど、でもそんなんで「嫌いな表現」が規制されてったら、何も表現できなくない?ひょっこりはんとか、アンチに消されるぞ。大体、オタクが女性のイデアをオカズにシコるのを想像して勝手に自分が性的対象となってると思い込むの自意識過剰なのでは、てか、なんなんだよ女性性って。
と、うだうだと自由戦士側に傾いてしまう。
でも、これって例えば俺がもし女性だったら、考え方変わってたのかなあって思うとなんかよく分からなくなってきました。
まあ、結局は価値観の殴り合いだから意味ねえよこんなの。
一生分かり合えねえよお前らは。
完
価値観の殴り合いだから、法律論振りかざすのもナンセンスなのよ。