福祉における「お金持ちを褒めよう」の危うさ

こんばんは。大変寒くなってきましたね。この季節は布団から出るのがどうしても億劫になってしまいます。風邪を引きやすい季節ですので、皆さまどうか、うんぬんかんぬん...

 

とまあ、前置きはこれくらいにしておきまして。さて、今回は「富の再分配」的な話です。このテーマはまあ、センシティブな問題なので、見る人に刺激を与えるようなことをしたくないなと思い、このブログで取り上げようという気がしなかったのですが、でもなんか思いついたので書こうと思いました。あまり、政治的な、センシティブな主張にならないようには気をつけます。

 

「富の再分配」と言いましたが、今回のテーマ正確には再分配を主張するにあたって、「富裕層は貧困層から搾取している!故に分配すべきだ!」などと「富裕層vs貧困層」という対立軸を起点に再分配を主張するのではなく、富裕層の貧困層に対して寄付するなどの行為を褒め称えるなどして富裕層の支援を促そうという発想についてです。色々あーだこーだ言ってみたいと思います。

 

そもそも、

 

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1ヶ月くらい前の話になるのですが、このnoteにそのような記述があったのです。これを見た当初、私は「なるほど確かに、富裕層と貧困層の対立軸を理由に社会を分断するよりかはいいのかな。」と思いました。一見すると両者winwinの関係を形成できるように見えるのですが、冷静に考えてみると一種の危うさがあるのではないかと考えました。

 

・背景に隠れる市場原理

 

突然ですが、ここでクイズです。クイズっていうかテストっていうか。

 

あなたは富裕層です。あなたの目の前に二人の人間がいます。1人は就活に失敗してしまい、その後そのまま就職できずに、お金がなくなってしまって、明日の食べるものにも困っている男性です。彼はツイッターで「赤ベーコン」と名乗り、下ネタなどロクでもないことを呟いて、フォロワーを困惑させています。顔はブサイクで、頭はハゲかけています。もう1人は女性で、有名大学に進学し、彼女はその明るい性格から大学では多くの友人を持ち、勉学も優秀で、サークルでも果敢に活動し、就活にも成功し、第一志望の大手企業に就職しましたが、配属先がブラックな職場で鬱病にかかり、就労を続けることが出来なくなってしまいました。こちらもまた明日の食べるものにも困っています。顔はめちゃくちゃ美人です。(男性の場合、ドストライクに入る容貌を思い浮かべてください。)あなたはめっちゃ金持ちですが、諸事情あって二人ともお金を援助することが出来ません。色々あるのです。さて、どちらを助けますか?(あなたが男性の場合、後者の女性を助けるとワンチャンあるかもしれません。彼女の鬱病も愛とお金のパワーで治るとしましょう。あなたが女性の場合、前者の男性を助けると「好き」と言い寄られてストーキングされるかもしれません。)

 

 

シンキングターイム!!!!

 

 

 

当然後者の女性を選びますよね。まあ、そういう風に作ったし。「諸事情」がなくて、どっちも助けられる状態にあっても前者を助けなさそう...。

 

こんなわざとらしい問題を出して何が言いたかったのか、人は基本的に「助けたい」と思ったときに人を助けます。つまり、「助けたい」という需要を満たせる人間でないと助けてもらえないのです。(ツイッターで「赤ベーコン」を名乗る男性のように。)

 

まさに、これは市場原理そのものであります。「安くてより良いものを買いたい」という消費者の需要に応え、承認された事業者のみが資本主義市場では生き残り、その他は淘汰されていく。勝者と敗者が現れる仕組みです。

 

先ほどの「お金持ちを褒めよう」のnoteにもあった、お金持ちを褒めて貧困層にお金を回す仕組みも同じような構造です。お金持ちを褒めてその「承認」を得られた者のみが、お金を得られる。もっと言うなれば、「金持ちの承認を満たす」という商品を提供できる者のみ援助される。まさに、市場原理と同じだと思いませんか?

 

市場原理が必ずしも悪いとは言わないけど・・・。

 

この仕組みが悪いとまでは言いません。確かに、富裕層と貧困層がwinwinになれる関係自体はとても理想的ではあります。社会保障費が増大し、我が国の財政に余裕がない中で、税金以外の資金の流入を促せるのであれば、この「市場原理」の力はそれなりに有効かもしれないからです。

 

しかし、社会保障制度にそのような仕組みを取り込んだらどうなるか。例えば、納税する際に富裕層が社会保障で助ける相手を指定するといったような。

 

富裕層に「助けるメリットがない」と思われてしまえば、その人は助けられません。

 

「子供は将来の日本を支える存在だから助けてあげるけど、老人は老い先短くて日本の利益に寄与することは考えられないからいいや。」

 

「俺は野郎を支援するのは嫌だけど、若い女は助けたいな」

 

「高学歴なやつは今助けてやれば将来利益を生み出すかもしれないけど、低学歴のやつはダメ」

 

「『赤ベーコン』とかいうやつはキモい。無理。」

 

このように差別が拡大するかもしれません。貧困層という弱者のなかでも、支援を受けられる「強者」と支援を受けられない「弱者」に分けられてしまうかもしれない。

 

 こうして、新たな分断を招いてしまうかもしれません。

 

 

もちろん、NPO法人などの民間団体がこういう仕組みを構築するのはいいことかもしれません。特に「子供の貧困」とかは世間の関心が高いと思うので、「子供たちを救いたい」という「需要」を持った「お客様」は沢山いると思うので。

 

しかし、世の中、助けを必要としているのは「可哀想な子供たち」だけではないのです。「可哀想」に見えない人だって困ってます。そんな彼らには「最後の砦」として残っているのは、公平な公的な社会保障制度なのです。なので、こういった考え方を安易に特に福祉のような特に公平性が重要であろう制度に持ち込もうというのは少し危ういのではないでしょうか。(まあ、勿論当該noteは公的制度に対する提言という訳ではないのでしょうが。)

 

終わり