赤ベーコンはオタクか? 曖昧に「オタク」概念に迫る

こんばんは。世間はメリークリスマスって感じですね。

僕は別にキリシタンでもなんでもないので、メリーでもなんでもないのですが。

今回はスペシャル企画として、クリスマス・大晦日・お正月と更新してほしいと質問箱の方にありましたので、「めんどくせ」って思ったのですが、更新します。

 

さて、クリスマスにこんなテーマで話すのもアレなんですが、大分前にブログで「オタクについて書いてほしい」みたいなことを言われたので、なんとなく「これにすっか」と選びました。

 

確かに、私はツイッターで「オタク」的なツイートばかりしている気はしますし、実際自分自身のことを「オタク」と自称したりするわけですが、でも、果たして本当に「オタク」なのかと問われると怪しいところがあります。

 

例えば、最近は深夜アニメをほとんど観ていませんし、学生時代(今も学生ですけど)、コミケこそ行きましたけど(十数回ほど)、その他にも同人イベントはあるわけですし、他にも声優さんのライブとかアニメ関係のオタクイベントが色々と世の中にはあったりするわけですが、それらには全く足を運んだことはなく、ゲームに関してはオタクでないというか、寧ろ疎いという感じで、中学2年生の頃にPSPの画面を割ってしまって以来、ほとんど触れることはなく、これまで過ごしてきました。

 

「じゃあ、お前は休みの日は何をして過ごしているのだ?」と聞かれますが、大体家の中で引きこもってスマホをいじったり、テレビを見ていたりして一日が解けていきます。

 

こんな風に「私はオタクなのだろうか。」とあれこれ思いを巡らせていると、「そもそも『オタク』ってどのような定義なのだろうか。」という疑問にぶつかります。なんかまあ、色々ネットとかで調べても色々定義されていたりするのですが、人によりけりといった感じで統一された概念ではないようです。

 

私が「オタク」なのかという問題に限らず、「オタク」の定義は他にも問題になりそうなケースがあります。例えば、深夜アニメとかは見ているけど、趣味として嗜む(?)程度で、そこまでディープなオタクではなさそうで、滅茶苦茶友達がいたりして、交友関係が広い人のような所謂「ファッションオタク」とか「ライトオタク」とか言われる人たちは「オタク」なのかということは一つの問題となり得ると思います。

 

今回は、その「オタク」概念について考えていこうというものです。本当は色々自分なりに資料を当たってみて、「オタク」の歴史から掘り起こしていきたいとも思ったのですが、そこまでの時間がないので、今回は僕の「オタクヒストリー」(そもそも、本当に僕がオタクだったかがまず疑問なのですが)を振り返りつつ、曖昧に「オタク」概念に迫っていけたらなと思っています。(資料をあたったりだとかは、また、時間がとれればやってみたいですが、年が明けても中々そのような時間は取れないと思うので、いつか時間がとれればやりたいなとは思います。)

 

「オタク」っぽくなったきっかけとその終焉

 

僕が深夜アニメを見るようになったのには、ある「きっかけ」が確かにあります。

当時、私は中学2年生だったと思います。

 

その当時、私は「オタク」に対して「気持ち悪い」というイメージを持っていた中学生でした。オタクのライトノベル勝手に取って冷やかしたりしていました。「健全」だったんですね。(人の物を勝手に取るのは健全じゃないかもしれませんが、オタクでなかったということです。)

 

その時、計画的に宿題を終わらせるタイプではなかったですし、当時は深夜まで起きるているのが「大人の証」みたいに中二病的な考えを持っていたので、宿題を終わらせるために深夜まで宿題をしていたんだと思います。

 

眠気を覚ますため、また深夜番組が気になって、夜な夜なリビングに行って一人でテレビを観ていました。すると、チャンネル変えてみるとやっていたのです。深夜アニメが。

 

はっきり作品名も申し上げましょう。「けいおん」です。今となっては「懐かしい」作品となってしまいますが、当時は社会現象と言われたりするくらいの人気だったと思います。(オタクコンテンツを社会現象というのは、なんだか憚れる思いもするのですが。)

 


「なんだ、オタクアニメかよ~」そう思いつつも、どういう内容か気になったのか、観てしまったのです。赤べこ少年は。

 


すると、なんということでしょう。すっかり赤べこ少年は見入ってしまったのです。こうして、オタクらしき細胞の塊がここに爆誕したのです。

 


その後は沼の奥深くにハマっていったような気がします。アニメも色々と見るようになりましたし、学校に行けば学校のオタクとオタク話をし、アキバに行けばオタクショップを巡り、コミケに行けば同人誌巡り...。

 

中高はズブズブとその沼に嵌っていきました。そして、大学生になればもっと深みにはまって一生抜け出せなくなるだろう、高校生の頃まではそう思っていたのです。

 

しかし、変わったのはやはり大学に入ってからだと思います。勿論、大学に入ってからもアキバには何度か行きましたし、深夜アニメも見ていましたし、コミケにも何度か行きましたし、「オタク」らしいことはしていたのですが、どうにもオタクなり立ての中学生くらいの熱い気持ちのようなものはどこかへ消えて行ってしまったように思います。段々歳をとるにつれて、熱意をもって打ち込んでいるというより、なんかただ惰性でこういうことをやっているように思えてきたのです。急にパッと脱オタしたわけでもなく、段々と興味が薄れていってしまった感じがするのです。

 

あらためて、「オタク」って何なんだ?

 

とまあ、これまでの私のオタク・ヒストリーを簡単にまとめていきました。

 

 これまでの私の経緯を見てみると、「コンテンツへの熱意」という主観的要素が段々と無くなっていったわけです。私が自分自身のことを「オタクでなくなった気がする」とい評価したのは、この「コンテンツへの熱意」もう少し一般化して言うならば、対象への熱意という要素が「オタク」にとって不可欠なものだと判断したからなのだと思います。

 

ただ、この要素はあくまで「オタク」であることの必要条件に過ぎないのだと思います。例えば、こんな例を挙げてみましょう。あなたのご近所にすごい盆栽に熱心なおじいさんがいます。毎日のように手入れをして、誰かがそれに触ろうともすればカンカンに怒ります。では、果たしてこのおじいさんは盆栽オタクと言えるのでしょうか。

 

やっぱり不自然さを感じますよね。このおじいさんに「おい、オタク」だなんて話しかけてみようものなら、それこそカンカンに怒られてしまいそうです。と、考えるとやはりもう少し色々と検討してみる必要がありそうです。

 

確かにその熱意の対象が、先ほどあげた盆栽だったり、あと例えば楽器だったりにせよそういった趣味に没頭しているひとを「オタク」とは言わないですよね。逆に「オタク」と言われる人の熱意の対象は、アニメや漫画、ゲーム、アイドル、声優、鉄道などの趣味ですよね。

 

こういったことを考えると、その対象に熱狂することが通常一般人から奇妙に思われているという要素もオタクの要素として欠かせない気がします。もちろん、現代は「オタクの市民権」なるものが過去と比べても向上してきたように思われますが、それでも根強いオタクに対する奇妙であるというステレオタイプは人々の心の中に残っているように思われます。

 

更に、社会不適合性やコミュニケーション能力の欠如も要素はどうでしょうか。これはそもそも「オタク」の語源である、オタクが互いのことを「御宅」と呼び合っていたことからも頷けるような気がします。この「御宅」という呼び方は、なんだかよそよそしさを感じます。こういった他者との関わり合いが苦手そうなイメージや、学校での身分、スクールカーストでも最底辺にいるようなイメージやそこから出てくる陰気臭さも感覚的には欠かせないような気がします。自らの趣味に没頭しすぎて、他人に興味がないと捉えるとなんだか自然ですしね。

 

特にこの要素を重視する立場から「オタク」を定義するのであれば、先ほどあげたようなめちゃくちゃ友達の多いオタクみたいな人たちは「オタク」に入らなくなるような気がします。

 

私に残る「オタク」らしさ

 

何度も繰り返しますが、深夜アニメやコミケなどのオタクコンテンツに対する熱意の喪失から、私自身「オタクっぽくなくなったなあ」と感じるようにはなったのですが、一方で「完全にオタクを脱したと言えば微妙だなあ」という感じもするのです。

 

ただ、このように「オタク」の要素を分解して考えてみることによって、この謎の感覚の原因がわかったような気がします。確かに熱意という要素は薄くなっていったのですが、他の要素は未だに自分に残り続けているのです。

 

例えば、アニメなどはあまり見ていませんが、私のTwitterのTLを見てみればわかりやすいと思うのですが、アニメの話題は減り続けていますが、あまり人が関心を持たなそうなテーマに関することばかりあげていたり、相変わらず陰気臭いことを呟いたり、RTしたり、なんだか人から奇妙に思われるような要素が残っています。

 

また、当然アニメを観なくなったからといって、コミュニケーション能力が飛躍的に向上するわけでもなく、相変わらず社会不適合感がTwitterからプンプンただよってきます。そういった意味で、社会不適合という要素も残っています。

 

さらに、熱意を失ったと何度か言いましたが、あくまでオタク的なコンテンツに関してのみであり、その根源となりそうな知的好奇心はまだまだあるのだなと実感することが多いです。とある事情で高校レベルの理科の勉強とか、世界史とかの勉強をしたりしているのですが、今更ながら「おもしろいな。もっと勉強しておけばよかった」と思っていたりします。また、後はプログラミングの勉強をしてみたいだとか、他にも色々な本を読んでみたいとか、なんだかんだ知的好奇心は衰えてないような気がします。

 

まとめると、確かにいわゆるオタクが好みそうなコンテンツに対する熱意はなくなったという意味ではオタクではないのかもしれませんが、オタクを構成する要素はバリバリ残っているのです。

 

こう考えてみると、オタクは一生オタクから抜け出せないのかもしれませんね。「脱オタ」っていうけど、それはオタク趣味を辞めただけで、オタク的な要素から脱したわけではないでしょう。このオタク的な要素は、まあ、科学的に検証したわけではないのでどうとも言えないところもありますが、個人的にはうまれつきのものではないのかなと思います。そして、やはり生まれつきの性質というのは中々変えにくいということを鑑みると、本当にオタクを辞めるっていうのは中々難しいことだと思います。

 

「お前はオタクを一生辞められない。」

 

こうしてオタク諸氏に冷や汗をかかせるようなプレゼントを聖夜に共有して、今回は終りにしたいと思います。

 

メリークリスマス