おじさん・おばさんの「選挙に行け!」に関するアレコレ

せーんきょ、せんきょ、あかるいせんきょー♪

 

成人式で配られたDVDがひどい件 - ニコニコ動画

 

 

さて、第25回参議院議員通常選挙、終わりましたね。

 

国政選挙の度に話題になるのが、そう、「若者の政治参加の希薄化・投票率の低下」です。

 

選挙のたびに、文化人や知識人を自称する高齢者や中年の人が「最近の若者の投票率は低下の一途を辿っており、云々カンヌン」と、テレビやネットなどを賑わすのが、毎回の"慣例"のようになっています。

 

そして、そういった風潮がネット上では、若者に対する「政治に興味を持たないダメなやつらだ」という"烙印"に昇華するわけです。

 

そして、彼らは、「このような若者と違って、私には政治に関して知見を有するのだ。」と悦に至るわけですが、果たして本当にそうなのでしょうか。

 

  • 選挙は行かなければならないものか?

 

私の答えは勿論、NOです。選挙に行く権利を我々は有していますが、義務ではないからです。

 

こういうと、「我々は、若者のために、選挙権を行使するように言ってるのだ。」と声があがりそうですが、余計なお節介です。

 

権利というと、「(権利を)行使する自由」が殊更に強調されますが、「行使しない自由」だってあるはずです。権利の範囲内であれば、何をしたって自由なのです。

 

例えば、父親が「息子の生活のために」残しておいた財産を、子供が相続し、その財産に関する権利を取得し、それを風俗店で遊ぶために使うのは、権利の範囲内であり、自由なのです。

(「ムスコの性活のために」使われてしまったわけですが...)

 

それに対して、「そんな権利の使い方は許されない!」と義憤に駆られる方がいらっしゃると思いますが、そんなものは個人の感想に過ぎず、財産を自由に扱う権利が、他の主体の感情の動きによって奪われることはあってはなりません。

 

「日本で暮らす一国民として、権利を行使すべきだ!」という「お説教」もまた、個人の感想に過ぎず、選挙に行かない自由を否定できるものではありません。

 

若者に対して選挙に行くよう、お説教をする方々は、このように、近代以降の政治的な原則である、「自由」ですとか、「権利の尊重」という観念がよく分かってないのではないかと思います。

 

  • 政治は高尚な営みか?

 

それでも、「でも、政治のことなんか考えないで、自分の事柄を優先する若者は、自己中心的だろう!もっと、社会に関することに関心を持って、民主政治下に生きる一人格として...」という声が、聞こえてきそうです。

 

確かに、社会で起きてる様々な現象に関心を持ち、解決のために物事に取り組む。それは崇高なことで、素晴らしいと思います。

 

ただ、本当に政治って、そんな自己中心的なものではなく、全く我々からかけ離れたものなのでしょうか。

 

歴史的な経緯を見ても、例えば、高校の世界史や政治経済の授業で紹介される、世界で最初の民主的ムーブメントである、マグナカルタの制定は、「議会の同意なく、税を取るな」という自己の利益のための、自己中心的なものです。

 

現代の政治でも、消費税を上げるな、年金の支給水準を高めろ、と自己の利益を中心としたことが、大きな争点となっています。

 

このように、政治は、特に民主的政治は国民一人一人の自己中心的な主張がその原動力となっている訳です。一人の政治家として、政治に携わるならば、それは「国民の代表」として社会全体のこと、「公益」のことを考える必要があるのかもしれません。しかし、我々のような近代以降の市民にとって、政治というのは、暮らしを良くするための手段に過ぎないのではないでしょうか。

 

ですから、自らの暮らしを良くするという目的の達成のために、政治ではなく、日々の生活の充実を優先させることは、非難されるようなことではないと思います。

 

寧ろ、政治をそのように高尚なものだと扱う態度は、人々を政治から遠ざけてしまうように思えてなりません。

 

 

 

これも答えはNoなんじゃないかと思います。

政治的無関心という現象自体、アメリカの政治学者を中心に何十年も前から、若者に限定されず、問題視されていたことです。

 

政治的無関心 - Wikipedia

 

政治的無関心の原因は色々考えられると思うのですけど、政治的参加の原動力となる、「不満」が欠けているのではないからだと思います。

 

先ほど挙げた、マグナカルタは税金の聴衆に対する不満ですし、ドイツ国民が第二次大戦前にナチスを支持した動きも、第一次大戦敗戦にやる生活の困窮という不満が原因だったと考えられます。

 

このように、政治的参加の原動力が不満であると考えると、今の若者もそうですが、政治的無関心にある人は、不満が少なかったり、不満を政治にぶつけるという意識がないのではないのかと思います。

 

現代の若者は、基本的に安倍政権下での経済政策もあってか、就職状況も良く、そこまで不満は大きくないと思います。勿論、労働関連や奨学金関連で不満を持ってる若者も一定数存在することは承知していますが、その不満がイマイチ政治的な行動と結びついてないのだと思います。(自分の努力で解消しようと思う、責任感の強い人が多いのかもしれないです。)

 

勿論、"高尚な"政治的議論(それこそ、憲法改正の問題とか)に高い関心があって、不満が政治的行動の原動力になってる訳ではない方もいらっしゃると思うのですが、基本的には、大きな動きになった政治的活動って、日々の生活への不満が原動力になってるんだと思います。

 

  • まとめ

 

こういうことを考えると、若者の政治的無関心に対して、ただ漠然と、「民主主義社会での主体としての意識を持て」と、上から目線で説教しても無意味だし、寧ろ逆効果なんじゃないかなあと思いました。

 

不満がないなら、そもそも政治に参加する意義は乏しいでしょうし、不満があってもそれが政治と結びつかないことが課題なので、不満に政治が寄り添うみたいなアプローチが求められるんじゃないでしょうか。

 

なので、かけてあげるべき言葉は「選挙に行け!」じゃなくて、「声を上げろ!」なんじゃないのかなあと思います。

 

ただ、まあ、若者が今、不満がないからって政治に関心を持たなくていいのかと言われれば、そうだとも思わなくて。

 

少子高齢化やそれに伴う人口減少が今も進んでいて、特に社会保障制度の維持が課題になってる中で、このままだと未来で、今の若者が必ず「不満」を持つようになってしまって、その時にはもう手遅れ...

 

みたいなことを考えると、政治的無関心って状態は大丈夫なのかなあとは、個人的に思いますが、まあ、それを選ぶのも、結局、当人の「自由」だよな...と。

 

終わり