味の多様性

 口を開けば、「多様性、多様性」と五月蠅い現代である。自分のような根暗には、正直、欺瞞にしか思えないワードである。要は、世間の「寛容」の範囲内に収まる平均値からの「逸脱」は認められるものの、依然としてそこにすら入れない異常者は迫害を受け続ける訳である。近年、ダイバーシティの名の下に「オタク」という概念そのものはそれなりに受け入れられつつも、私のようなみてくれのオタクは「チー牛」などと括られ、SNSで容姿を罵られるのが現状である。そんな社会に多様性などと言う資格があるのか。

 

 まあ、そんな愚痴みたいなことが言いたくて目の前のキーボードを叩いている訳ではない。本題に戻ろう。ビールが飲めない若者が多い。急に老害みたいなことを言い出したが、単に「多いな。」というだけである。別に飲めなきゃいけないという訳ではない。自分自身、実際に二十歳になって酒を飲み始めるようになって、「酒と言ったらビール。」とイキって飲んでいた訳であったが、実際は苦くて美味しいと思ったことはなかった。でも、「喉越しはいいんだよな。」と騙し騙しに飲んで数年ほど経って、ようやく好き好んで飲めるようになったのだ。

 

 「ビールが好きだ。」と言うと、冗談なのか本気なのか分からないけど、「大人だね。」と言われる。酒が好き=渋いみたいなイメージで言っているのかもしれないけれど、単に好きなだけなので、そんな風には思わない。ただ、そんな風に言われた時にふと思ったことがある。ビールが飲める、大人になるっていうことは、「味」に寛容になるということ、「味」の多様性を認めるっていうことなのではないか、と。

 

 ビールを騙し騙し飲んでいた時のことを思い出す。「苦くて飲めたもんじゃないが、このどこかに美味さがある筈だ。」と探ることの連続だった。ビール缶を開け、中の液体を口に含み、舌の神経を巡らして、美味さを探す。苦い。どうして350m缶じゃなくて、500m缶を買ってしまったのだろうと後悔する。そんなことの繰り返しだった。で、いつの間にか、この苦みが美味いなどと、その美味さを認めることができるようになっていた。

 

 で、多様性の話に戻る。「多様性」というと、異常者が社会に受け入れられることばかり語られるが、その異常者をどう受け入れるみたいな話をあまり聞かない気がする。こういった時に、ビールが飲めるようになる時みたいに、悪いところの中にも良いところを見つけ出すみたいな試みが必要なのではないだろうか。そう。だから、若者よ。ビールを飲もう。ビールを飲むことで多様性を受け入れよう。

 

 こうやって「ビールを飲めない。」という不寛容を、寛容しない態度によって、カール・ポパーが言ったような「寛容のパラドックス」に陥っていく訳であるが。